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パナマ運河をつくった日本人

パナマ運河をつくった日本人

変わった形の国土と過ごしやすい気候

パナマ共和国は、北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の境に位置する共和制国家。弓のような形をした国土は、北はカリブ海に、南は太平洋に面し、東部と南東部に山脈があります。雨季と乾季に分かれますが、比較的過ごしやすい気候が続きます。

 

 

 

世界の重要な貿易通路 パナマ運河

15世紀にスペイン人がパナマ地峡を横断し、太平洋に到達して以来、多くの国の人々がこの地峡に運河を造る夢を抱きました。これに着手したのは、フランスの企業家で、東西の両洋に流れ込む河を掘割で結ぶ計画でした。多額の費用を投じて始めた事業には、延べ20万人の労働力を動員して進められましたが、予想を遥かに超える難工事、疫病の蔓延などで難航を極め、会社は破産。計画は中断していました。しかし、1903年11月3日パナマ共和国が誕生したのを機に、米国が運河地帯の永久支配権を得て、運河建設を再開したのです。それから10年の歳月を費やして、1914年にようやく運河の開通に至ったのでした。

 

 

パナマ運河には日本人の活躍が欠かせなかった

一人の日本人技師、青山 士(あおやま あきら)氏は、今でもパナマ運河建設の歴史において語られる重要人物です。

1903年当時26歳だった青山氏は、東京帝国大学土木工学科卒業時に恩師廣井教授よりパナマ運河建設の話を聞き、同年単身米国に渡航。翌年からパナマで末端測量員として動員されました。その後短期間の内に昇進を続け、測量技師補、測量技師、設計技師を経て最終的にガツン工区の副技師長として活躍していました。困難を極める地形との戦いにも負けない有能さと、マラリアに罹患し命を落としそうになりながらも従事し続ける誠実さで、高い評価を得ていました。しかし、1911年に日米関係の悪化のために、運河の完成を見ずに、帰国を余儀なくされていまいました。

 

 

第二次世界大戦時の運河爆破計画

日米の対立が悪化していた、第二次世界大戦時、旧日本軍はパナマ運河の爆破計画を行っていました。この計画を進めるにあたり、旧日本軍は当時運河建設に参加した青山氏から運河の破壊方法を引き出そうとしましたが、青山氏は「私は運河を造る方法は知っていても、壊す方法は知らない。」と語り、パナマ運河は守られたのでした。

 

 

パナマへパナマ運河が戻された時

1999年12月31日正午、パナマ運河は、米国からパナマ政府に返還されました。

今では、日本はパナマ運河の上位の利用国。約100年前に一人の若者が身を呈して従事し守った運河は、世界の重要な航海ルートとして、毎日多くの船舶が行き来しています。

現在でも、運河拡張工事が施工されるなど、さらに大きな役割を担う重要ポイントです。

 

 

多くの先住民が生活する国

先住民が多く存在しているほかに、白人、先住民、黒人の混血も多くみられ、歴史を物語るような文化的ルーツを持っています。

常夏パナマ。二つの海に挟まれたこの土地には、魅力的なビーチや島々が多数存在し、素朴な熱帯雨林には、動植物の多様性に恵まれ、固有の動植物も数多くいます。

この国を訪れる時は、壮大なパナマ運河とともに、豊かな自然と多様な文化を楽しめそうです。

 

在パナマ日本大使館

http://www.panama.emb-japan.go.jp/jp/panama-canal/

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