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世界が見えるトピックス 特集

先人が苦難を乗り越え切り開いてきた歴史の上に現在がある 前編  ~JICA 中南米部 吉田憲~

今年、2018年は日本人のブラジル移住110周年という記念の年です。今回の世界が見えるトピックスでは、「移民」という観点から日本とブラジルの関係に注目。両国は、長い時間をかけてどのような歴史を育んできたのか、それが現在、どのような影響をもたらしているのか……。私たちにとって一見遠い国のように感じられるブラジルですが、当然、無関係ではありえません。JICA 中南米部 吉田憲さんにお話をお伺いしました。

 

 

―日本の移住事業は、いつからどのような形ではじまったのでしょうか?
そもそも、移住というのは、人がなんらかのポジションにあったときに「よりよき人生を求めて移動する」ということです。途上国で暮らしていた人がアメリカに渡ってお金を稼ぐといった話もそうでしょうし、日本国内でも私のように仕事の都合で、地方から東京に上京する場合もあります。あるいは、生きていくために国境を越える難民だって根本的なところは同じと言えるでしょう。
日本の移民の歴史を紐解くと、いまから150年前の1868年(明治元年)にハワイに移住した人々がいました。当時の人たちにとっても、日本を捨てたというよりは、よりよき生活を求めた出稼ぎ的な意味合いが大きかったわけです。当時の日本は農業をベースにした社会でしたから、なかなか生活していくのが難しいという状況があったなかで、自分の人生をよりよくするための選択だったということだと思います。

 

―当時、日本からの移民はどのような形で実現したのでしょうか?
1868年ハワイへの移民は初めての日本人の集団移住でした。後年「元年者」と呼ばれ、ハワイ王国の横浜駐在領事があっせんしたもので、旧幕府から旅券の発給は受けていたものの、明治新政府が渡航を認めないままの出航でした。サトウキビ畑の労働者としての移民でしたが、不慣れな気候での過酷な労働等、結果的には中途帰国など相次ぎうまくいきませんでした。その後、「官約移民」といって、ハワイ政府と明治政府が結んだ契約に基づいて移住が行われました。日清戦争開戦後、「官約移民」が廃止され民間の仲介業者が乱立するようになったのですが、さまざまなトラブルが起こった結果、国や自治体が組織を整えていくことになります。1929年には日本の海外移民事業と植民地の統治事務を監督する拓務省が設立されました。
―なるほど。
日本での江戸時代末期、アメリカ合衆国に併合される前のハワイ王国では、サトウキビ栽培のための労働力を求めていました。だから、移民はウェルカムだったのです。その翌年以降もグアムなどに少しずつ広がっていき、その後、ハワイ移民はカリフォルニアなど、より労賃が高いアメリカ本国に再移住して働くようになります。ところが、アメリカ合衆国において、日露戦争後に「黄禍論」が巻き起こり、日本人の排斥運動が起こったわけです。そして、1907年。正式に日本人の移民が制限されるようになりました。
―日米紳士協約ですね。
そこで、日本人の移住先の中心となったのが中南米の国々です。たとえば、1888年に南米大陸のなかで最後の奴隷解放宣言をしたブラジル。それまでプランテーションで過酷な労働を強いられていた奴隷が解放されたことによって、労働力不足に陥ったわけです。当初は、イタリア系の人々などを移民として受け入れていたのですが、ブラジルの農園主が彼らを奴隷扱いしたため、イタリア政府が激怒。移民事業を取りやめます。それで、困ったブラジルと、北米への移民を禁じられた日本の双方の利益が一致したということです。

 

JICA横浜 海外移住資料館 所蔵

―そういう流れがあったんですね。実際にブラジルに移民として渡った日本人たちはどのような生活を送ったのでしょうか?

ブラジルへの移民事業は1908年にはじまりましたが、ちょうどその年はコーヒーが不作の年でした。そうすると、コーヒーは「金のなる木」だと言われていたのに話が違う、ということになりますよね。しかも、イタリア系移民のときと同様に奴隷扱いされる日本人もいた。結局、781名いた最初の移民のうち、数ヶ月後には半分以上の方々が、移住地から逃げたり転住するという厳しい生活だったと聞いております。
―厳しい生活は続いたのですか?
最初の10年、20年は相当厳しく、なかなか思うようにお金を稼げないことが多かったようです。それで、街に働きに出る場合もあれば、原生林を切り開いて生活したというケースもありました。湿地帯でお米作りを試みた方たちもいましたが、蚊がいるのでマラリアが発生するわけです。たくさんの方が亡くなりました。
―そうだったんですね。
そうした悲惨な状況のなか、なんとか生き延びて、お米とともに野菜を栽培した方々もいました。けれど、ブラジルは、もともと肉食の文化なので野菜なんて知らないわけです。野菜を作って持っていっても「なんだこれは?」と。そういう意味でも非常に苦労されたと思うのですが、移住者たちは、野菜の栽培方法や野菜を使ったレシピ、あるいは流通にいたるまで、野菜文化を伝えていった。いまの時代の国際協力において、JICAの場合、プロジェクトごとに3~5年で成果を測るわけですが、当時は当然そんな考え方はなくて、命からがら生きるために野菜を作って、売って、多くの方々に野菜の食文化を広めたわけです。そして、結果的には現地の健康寿命を伸ばした、野菜の流通経路を創り上げたという。それは、いま我々JICAが行なっている活動と比べてもはるかに大きな成果をあげたのだろうと思います。そういう意味では、彼らの活動は、現在の日本の国際協力の原型だったと言えるかもしれません。

 

JICA横浜 海外移住資料館 所蔵

―すごいですね。

また、現在の視点から、移民事業にどのような歴史的意義があったのかを考える時に、ひとつには、やはり近代の人々が1868年から国際社会のなかに入っていったことが挙げられると思います。それまで鎖国体制だったなかで、未知の海外に勇気を振り絞って飛び込んでいった。そして、―横浜にあるJICAの海外移住資料館を監修された梅棹忠夫先生のお言葉を借りれば―中南米において、「われら新世界に参加す」として新しい国づくりに参画していったということだと思います。
さらに、もう一つ。私が強調したいのは、移住は日本の歴史、近代史そのものだということです。私たちが日本の歴史として学ぶのは、日本で起きたことが中心ですけれど、結局、太平洋戦争にしても、元寇にしても、よその国との関係において形作られているわけですよね。同様に、江戸幕府末期から日本と他国との関係性が強まる、その背景には1820年以降の南北アメリカ大陸での奴隷解放を始め世界的な動きが日本社会にも影響してきた。集団移住というのは、結果的には、日本という国が世界の国々と深い関係を持つための目覚まし時計的な事業でもあったと思います。
―たしかにそうですね。
ブラジルには、「ジャポネス・ガランチード」という言葉があります。「日本人は信用できる」という意味のポルトガル語です。現在、約2億人いるブラジルの人口のうち日系人の方は約190万人。つまり1%以下です。けれど、ブラジルは非常に親日国と言えます。どうしてか? それは、友達の友達の友達には必ず日系の方がいるという事情もあるし、日系人のイメージ、つまり、お金を盗まないとか、お釣りをごまかさないとか、日系移民の方々が100年以上に渡って培ってきた信頼があるからです。いま、ブラジルを訪問する日本人が心地よく旅を楽しむことができるのは、先人が苦難を乗り越え、長い時間をかけて切り開いてきた両国の歴史が共有されているからなんです。それは、ブラジルだけでなく、ペルーやパラグアイ、ボリビアなど日系の方の多い国でも同様です。これこそ、私たちが学ぶべき歴史だと思います。

 

 

 

 

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