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世界的に有名な「マチュピチュ」の観光街の初代村長は日本人だった

世界的に有名な「マチュピチュ」の観光街の初代村長は日本人だった

遺跡の集落へ鉄道を走らせた

とある日本人が、あのマチュピチュを観光地化へ導いたという歴史をご存知でしょうか。

その歴史は、24歳の若者野内与吉が、1917年に契約移民としてペルーへ渡った時から始まります。ペルーは1911年にアメリカの探検隊によって発見されたばかりの地でした。その地を夢見て渡航したものの、当時は満足な仕事ができず、米国やブラジル、ボリビアなどを放浪。しかし、1923年頃ペルーに戻り、ペルー国鉄に就職。会社専用電車の運転や線路拡大工事に携わり、1929年完成したクスコ~マチュピチュ区間の線路の建設に貢献しました。

 

 

 

集落に農業と観光をもたらす

翌年、マチュピチュ村に移住。水路の無かった村に、川から水を引き、畑を作りました。また、この水力で発電もし、村に電気をもたらしたのです。これらの開拓の際には温泉が湧いたという説もあります。手先が器用で、利発だった野内氏はこうした開拓の他にも機械の修理なども行い、村で欠かせない存在となっていたのです。

1935年には、ホテル・ノウチを建設。1Fは郵便局と交番、2Fは村長室と裁判所といった公共施設として提供し、3Fをホテルとして利用していたようです。また、当時高級だった木造建築ですが、このホテルの面白いのは、線路のレールが利用されていたということ。ペルー国鉄に大きく貢献した、野内氏らしいユニークな発想ではありませんか。

 

外交役としても活躍 ついに村のトップに

野内氏はスペイン語、英語、先住民の言語であるケチュア語を話せたので、現地ガイドとしても活躍しました。ここまででも多くの貢献をしてきた野内氏は、現地の人から厚い信頼を受け、1939~1941年にはマチュピチュ村の最高責任者である行政官を務めました。マチュピチュ村が正式に村になったのは1941年ですが、実質のトップとして村を治めていたのです。

 

野内氏無しでは村は存続しなかったかも

1947年、マチュピチュ村の川が氾濫し、村は大きな土砂災害がおこりました。この時、野内氏と住民が、地方政府あてに緊急支援を依頼。それを受けた政府からの命令で、復興のため1948年に野内氏はマチュピチュ村村長に任命され、災害からの復興を実現しました。

 

さらにペルーの為に尽くし余生へ

1950年頃、ペルー国鉄で再度勤務を始め、定年まで勤めたのち、この仕事を息子の一人に引継ぎました。

野内氏の現況が日本の親族に伝わったのは、1958年。マチュピチュ遺跡を訪問見学した三笠宮殿下に、野内氏の長女が花束を贈呈した写真が新聞に載り、それを目にした親族が、野内氏を説得し帰郷させました。日本滞在中は、マチュピチュ遺跡に関する講演会や新聞やラジオ番組出演などをしました。このまま残るよう説得した親族に、「ペルーには11人の子供たちが待っているから」と、クスコに戻ったのです。その後野内氏は、1969年8月29日、愛する地ペルーで最期を迎えたのでした。

 

東京大学総合研究博物館
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v19n3/v19n3_nouchi.html

 

 

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